中国北部、すなわち現在の北京から西方にあたる内陸草原地帯の綏遠(すいえん)・オルドス地方は、中国中原の地域よりもやや遅れて青銅器文化の時代に入った。しかしこの地方はユーラシア北部から西方にかけてのコーカサスやルリスタンの西アジアと独自の文化交渉をもったために、中原文化からみると辺境地帯の農耕と家畜飼養を主とした遊牧民族文化であるにもかかわらず、動物意匠などユニークな装飾文を発展させた。青銅器文化圏はやがて東方に拡大して、渤海沿岸の遼寧、遼東あるいは河北に達し、近隣の朝鮮半島に影響をおよぼすことになったのである。遼寧式銅剣・多鈕鏡・細形銅剣など特異な形状の青銅器がこの地域で作られ、朝鮮半島は紀元前七世紀ごろに、こうした遼寧地方の青銅器文化の要素を受け入れて、その後次第に半島独自の青銅器文化を形成していった(74)。
一方中原では戦国時代(紀元前四七五年~前二二一年)になると、漢人たちが多数東方に進出するようになり、その中の一国燕は新たに遼寧、河北の地を支配して、中原の鉄器文化をこの地方にもたらした。すなわち紀元前三世紀のころには、朝鮮半島の北部に燕の通貨である明刀銭とともに、鉄製の武器、工具、農具などが現れるのはこの結果にほかならない。ほぼその時期に接して、日本列島の弥生文化は朝鮮半島から青銅器と鉄器の両金属器文化の要素をほとんど同時に受け入れることになったのである。