多鈕細文鏡と銅鐸

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こうした朝鮮半島の文化遺物は、河内平野の一角にももたらされている。河内平野を斜断する大和川の入口にあたる生駒山地の南端に柏原市大県(おおがた)という地がある。この東方の鷹ノ巣山は弥生後期の遺跡であるが、南側の尾根筋の鞍部から一九二五年春に多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)の名で呼ばれる一面の銅鏡が出土した。美麗な漆黒色の光沢をもつ白銅質で、面径は二一・七センチあり、鏡背の中央から一方に偏して二個の半円環形をした鈕が並列し、地文には複合鋸歯文、綾杉文などの細密な線文からなる文様を鋳出して、蒲鉾縁を有している(75)。多鈕鏡を分類、研究した宇野隆夫氏によると、この鏡は多鈕粗文鏡の系統をうけて、中原の新しい鋳鏡技術を取り入れて土型で鋳造されたもので、衛氏朝鮮国が始まる紀元前二世紀ごろと推定できるという。朝鮮半島の青銅器文化の影響が、どういう経路からかはわからないが、大阪湾岸に近い内陸部にその片鱗をとどめたのである(宇野隆夫「多鈕鏡の研究」『史林』六〇―一、一九七七年)。

75 柏原市大県出土の多鈕細文鏡

 弥生文化が大陸諸地域の政治情勢の変化にともなうさまざまな先進文化の刺激を受けたことは、上記のような断片的な観察からも裏づけられる。しかしその反面、日本列島内部の諸地域においても、独自の変化発展を認めることができる。近畿地方はとくに銅鐸という国産青銅器の鋳造において発達した技術を駆使した地域であった。銅鐸は近畿を中心とする中部日本で約四〇〇個が発見されている。鋳造遺跡も一九六〇年に兵庫県姫路市名古山で硬質砂岩製の鋳型を発見したことが契機となって、同県赤穂市や大阪府茨木市東奈良遺跡、奈良県唐古遺跡でも鋳型をはじめとする鋳造関係遺物の発掘が相次いだ(76)。このことから主要な弥生集落は、近隣に鋳造工房を持つという興味ある内容を明らかにしつつある。

76 東奈良遺跡出土の銅鐸鋳型 (大阪府教育委員会写真)

 銅鐸は、文様などから横帯文式・定型式・突線帯式という発達段階にしたがって分類されてきたが、近年では、上部の鈕の断面の変化から細かな様式変化を試みる研究も進んでいる。大きさからいえば、高さ二〇センチ程度の小型のものから、一・四メートルに近いものまで大小の差があって、ふつう小銅鐸が次第に発達して大型化への道をたどったと解している。