さて、河内東南部の石川谷でも出所の不確かなものを含めて九個の出土例が知られている。その地域は柏原市、羽曳野市、太子町で、本市から発見された例は残念ながらまだない。この中で最も確実な出土例から説明しておくことにしよう。
一八九八年ごろ、太子町山田の金山谷というところから、偶然の機会に一個の銅鐸が発見された。この年旧暦正月一〇日にその地に住んでいた一一才になる少女が、仏前の供花を採るためこの金山谷に入ったところ、山腹の土の上に青さびのある金物の端があらわれていたので、好奇心にかられて掘り始めたが、あまりに大きいため兄弟を集めて、その助けによって初めて掘り出すことができたという。金山谷というのは二上山の西南麓にあたり、竹内街道の北側にある。太子町山田から東に向かうと、「鶯の関」と優雅な名をもつ峠の手前に石碑がある。ここを左手にとって山道をたどれば奈良時代寺址として著名な鹿谷寺址に達する。金山谷はこの山腹の南斜面を指している。この銅鐸を鹿谷寺出土と称しているのはそのためである。鹿谷寺址の凝灰岩製十三重層塔を今回初めて空中から撮影することができたので、付近の地形の紹介をかねて掲載することにしよう。撮影者はハマフォトサービスの浜四郎氏、パイロットは昭和航空の加美野栄三氏で、シャッターチャンスの苦労を物語る一枚の写真である(77)。
鹿谷寺址出土銅鐸の高さは四九センチで、第Ⅲ様式に属する扁平鈕をもち、鐸身は定型式で、四つの区画内にはそれぞれ四重ないし五重の双頭渦文を上下に並列した図形を配している(78)。
同様に太子町太子の富田林市との境界に近い茶臼山麓から一九三二年に出土した銅鐸も定型式に属し、高さは三九センチある。
これに対して羽曳山から出土したというのは、明治以前に発見したために出土地が明瞭ではない。しかも鐸身の下方が欠損していて完全ではなく、残存高は五五センチある。突線鈕をもち、従来の分類では突線帯式に属している。太子町の鹿谷寺鐸、茶臼山鐸に比べると年代の新しいものといえる(79)。
伝玉手山鐸というのは柏原市玉手町玉手山から出土した所伝を有するためで、出土地点はわからない。鐸身の下半を欠き、側面に沿って突出した鰭部も大部分失っているなど破損が著しい。残存高は六八センチほどあり、もとは一メートルに近い高さを有していたであろうと推定される。突線鈕をもち、典型的な突線帯式銅鐸で、伝羽曵山鐸、後述の西浦鐸と同様に新しい型式に属している(80)。
このほかに太子町吉田山、同町山田からの出土例もあって、石川東岸の太子町地域に、比較的多くの銅鐸が埋蔵しているとみられるのは興味が深い。また出土場所が不確実であるが、河内南部出土と伝えるものも三例ほどある。
ところが、一九七八年に羽曳野市内から新たに銅鐸一個が出土した。非常に珍しいことに、この銅鐸は埋まったままの原位置の状態で発見の報告が行なわれたので、埋没した状況を確認しつつ発掘できた点でも他に例がない。
発見場所は羽曳野市の南部にあたる西浦の地で、西浦小学校内の西校舎を改築工事中、同年九月二七日に偶然銅鐸が横倒しになって埋没しているのを見つけたという。当時、新聞でも大きく報道され、羽曳野市教育委員会で保存の処置と関連資料の調査研究が行なわれつつあるので、ここでは簡単に紹介しておくことにしよう。
この地域は石川中流域の西岸に当たり、河岸段丘が消滅して石川の氾濫原が幅広く内湾状に入り込んだ低地帯である。おそらくかつては水の淀んだ沼沢地をなしていたとみられる。銅鐸は多くの場合、丘陵上や山の中腹から発見されているのに反して、この西浦例では沖積地に埋没していた点でも珍しい。西浦の銅鐸は地下一・五メートルのシルト質青色粘土層中に、水平に横たえられた状態であった。詳しい説明によると、銅鐸の上部は茶色粘土層、下部は青色粘土層をなしていて、そこに長さ約一メートル、幅〇・八メートル、深さ〇・五メートルの長方形土壙を穿ち、その中に埋納した形跡があったという(古田実「銅鐸発見のいきさつについて」『羽曳野史』五 羽曳野市史編纂室)。上の鈕は西南方を向き、両側の鰭部は水平ではなく。一方の鰭を四五度斜めに上げていた。
発表された数値によると、銅鐸の全高は八九・五センチ、本体高六一・五センチ、最大幅四四センチ、底部の長径三五センチ、短径二九センチの大きさがある。突線帯式で体部の側面を六区画した型式に属し、この式としては大型で全体に均斉のとれた立派な遺物である。青銅製品とはいうものの、酸素のない泥中に長年月埋まっていたため茶褐色の錆色をつけた外観をもっている。鈕の外縁に三個の双頭渦文を配し、鰭の側縁に六個の飾耳がついている。体部の文様は突線帯のほか、斜格子文と鋸歯文で区画していて六区画内には文様がない(81)。石川谷に沿い点々と分布する銅鐸は、まだ富田林市内からの発見例を欠いているものの、喜志・中野両遺跡を市域にもつことからみても無関係とはいえない。したがって周辺の弥生時代の集落遺跡の中で、どの時期のどこのムラに属する宝器であったか、はなはだ興味をそそる遺物である。