それでは河内南部の弥生時代のムラ、すなわち集落はどのように形成されていたのであろうか。富田林市内には現在、喜志、中野、細井、滝谷、彼方などの弥生遺跡がある。喜志、中野は市北部の洪積台地上に立地するものであり(82)、細井は丘陵と段丘との傾斜変換線上、滝谷、彼方は丘陵上の高地性集落遺跡である。これら個々の遺跡の内容は遺跡各説の項で明らかにすることにしたいが、そのことごとくが弥生中期中頃以降の時期に属していることに注目したい。すなわち弥生式土器の編年では喜志、中野が主として第Ⅲ様式以降の土器を出土し、細井も詳細は不明ながら土器様式は新しく、彼方では第Ⅴ様式の土器をともなうことが指摘できるので、本市域に関する限りでは前期から中期初頭にかけての集落遺跡の存在はまだ知られていない。
石川谷における弥生集落の性格を明らかにするためには、周辺地域を含めて弥生前期以降の集落の発展過程を検討しておく必要がある。水稲農耕を生産の基調とする弥生時代の地域社会の開発が、いつ、いかなる形で石川谷の地溝帯に進出することになったのか、さらに河内南部の地域的特質が、階級社会形成の上におよぼした影響の評価をめぐって多くの問題を提起しうるからである。