河内中・南部の弥生遺跡の分布をみると、東側は金剛・生駒山地によって大和、すなわち奈良県とかぎられ、西側は狭山丘陵によって和泉、すなわち大阪西南部とさえぎられた南北二五キロ、東西七キロの細長い地域環境としてとらえられる。地形からは、北方の大和川が石川と合流して北流し、河内潟を徐々に埋めつつ堆積した湿潤なグライ土壌からなる沖積扇状地と、南方の河岸段丘によってはさまれた石川谷とに分けることができる。この北方に位置するものとしては、現在東大阪市に属する地域を中心に、旧大和川の流路にあたる長瀬川、楠根川、玉串川、恩智川など西から東にかけて並行する支流に沿って、標高五メートルから一〇メートル未満の沖積微高地上に、点々と弥生時代各時期の集落址が分布している。すなわち西方から瓜破遺跡、長原遺跡、亀井遺跡、加美遺跡、衣摺遺跡、久宝寺遺跡、上小阪遺跡、小若江遺跡、友井東遺跡、瓜生堂遺跡、山賀遺跡、若江北遺跡、楠根遺跡、小阪合遺跡、北鳥池遺跡など、大阪市の東南部から東大阪、八尾両市域にかけての低地集落遺跡である。これに加えて標高一〇メートル以上のやや高い内陸地に中田遺跡、船橋遺跡も位置している。
これに対して生駒・信貴山西麓に沿う谷口扇状地上に形成された額田西ノ辻遺跡、鬼塚遺跡、皿池遺跡、縄手中学校校庭遺跡、永塚工業敷地遺跡、大竹遺跡、高安遺跡、恩智遺跡、大県遺跡など、東大阪市、八尾市、柏原市にかけて遺跡は豊富である。さらにやや高地の山畑遺跡や標高二七〇メートルの山頂部に位置する鷹ノ巣山遺跡もある。そして平野部の遺跡分布は、大和川と石川の合流点に臨む洪積台地突端の国府遺跡を南限とみることもできる(83)。