石川谷の中で最も時期のさかのぼる弥生遺跡は羽曳野市にあって、石川の東岸に位置する壺井遺跡であろう。規模はきわめて小さいが、畿内第Ⅱ様式すなわち中期初頭の土器を出土する遺跡である(84)。これについでやや上流の羽曳野市東阪田遺跡があり、南側の富田林市喜志遺跡と接し、行政区画は異なるが本来は同一弥生集落が南北に二分された遺跡と解してもよいのではないかと考えられる。標高五〇メートルから四二メートルと北方に向かって緩やかに傾斜する台地上に位置し、南北の長さ七〇〇メートル、東西の幅二〇〇メートルの範囲に、集落がいくつかのグループをなして分散しているようである。この中央を占める主要地点から出土する土器はすべて中期後半に属し、畿内第Ⅲ様式を主とするものと推定しうる。上述した壺井遺跡に比べると、やや遅れて始まった石川西岸の低河岸段丘上の大集落といえるであろう。遺跡は東高野街道に沿い、現在ではその中央を国道一七〇号線が通じている。