羽曳野市域に属する東阪田では、一九七六年の調査で、柱穴を有する円形および方形平面の住居址が発掘されていて、富田林市の試掘で確かめた状況とほぼ一致する。また段丘の北端にあたって、最も低い台地縁には弥生後期の土器と土師器を出土する別の新しい遺跡もある。中村浩氏によると、この遺跡からは縄文式土器と解しうる二個の破片も採集したというので、東阪田から喜志にかけての台地は、縄文後、晩期ごろと、弥生中後期の複合集落遺跡となる可能性もある。いずれにしても、縄文式土器片の出土量がまだ僅少であるので、この問題は将来の検討に待たねばならない。
喜志遺跡を挙げれば、同様に中期の遺跡として南方に一・六キロ離れて存在する中野遺跡との関連も触れる必要がある。中野遺跡の内容は遺跡各説の項で扱うことにするが、出土土器の中には、細頸壺の型式で口縁部の外側に、櫛目文を施し円形浮文を三段にわたって貼り付けた第Ⅲ様式の(古)にあたる土器も含まれている(85)。東阪田あるいは、喜志・中野の集落がまさにこの段階で始まるとすれば、前期から始まる河内平野の集落群に対して、石川谷に弥生人が定住したのはこれにつぐ中期であること、言いかえると石川谷に水稲農耕のための開発の手がおよんだのはこの時期からであったことを強調しなければならない。二〇〇〇年を数える水田経営の歴史の黎明期であったといえよう。