河内長野市の塩谷遺跡

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弥生中期が石川谷開発の画期であったことは、たんに富田林市の喜志、中野という中流域にとどまらず、さらに上流域の河内長野市にもこの時期の集落遺跡が近年発見されていることからも裏づけられる。すなわち石川谷の最南端にあたる河内長野市千代田町の塩谷遺跡は石川西岸のいわば最奥の段丘上に位置している。遺跡はブルドーザーによる開発中に発見されたため、住居址などの遺構は全く調査できなかったが、峯正明氏によると弥生式土器とともに、石包丁・磨製石斧片・石槍片・石鏃などを採集したという(86)。弥生式土器は櫛目文様を有している点からみて、中期に属することはいうまでもない。石川谷の谷口から一二キロの奥地にまで積極的な進出が試みられたのは、前期の弥生集落が低湿地農耕という自然条件に順応した生産体制であったのに対して、中期の段階では耕地の拡大が意欲的に行なわれた結果であろうか。台地上に集落の設定が認められる理由については河内平野の低地との比較検討が必要となる。

86 塩谷遺跡出土の石鏃・石槍・石包丁・磨製石斧 (河内長野市教育委員会峯正明氏写真)