さて、河内平野の低地集落の場合、集落と水田とが同一立地上に密接していて、生産活動と維持管理の上からは好都合であったと考えられる。ところがこれら喜志・中野両遺跡では、集落の標高が五〇メートル内外もあるのに対し、水田の適地は石川の氾濫原に近い三五メートル程度の標高をもつ低地に求めねばならなかったとすると、生活と生産の場との間には一〇メートルないし一五メートルの高度差があったことになる。水田が営まれた低湿地と離れて、集落が高燥地にあることは生活環境の面で合理的であり、石川谷のように河岸段丘にはさまれた狭隘な地形においては、河川に沿う低湿な氾濫原を水田の利用に委ね、一方では生産性に乏しい台地上に集落の地を求めたと解することができる。ところが実際には、弥生中期になって集落が石川谷の各地に進出するに至った背景として、当時低地集落が直面していた苛酷な自然条件とあわせ考えると、もっと深い理由があったといわねばならない。
東大阪市瓜生堂遺跡では、発掘調査によって、弥生前期の中ごろに集落としての生活が始まっていたことが確かめられた。ところがこの集落の場合、中期初頭になって突如として居住を放棄していることが、畿内第Ⅱ様式土器の欠落で知られるという。そして中期中葉になると定住集落として再開されるが、中期末に断絶してしまい、後期はこの地域が廃村の状態におかれて、ようやく古墳時代前期初頭に居住の復活することが認められる。その理由としてこの集落には前期末と中期末の二度にわたって大洪水が襲った痕跡のあることを指摘している。すなわち前期末には海水準の上昇によって、河内平野の肥沃な三角州が再び沼化、水没した上に、粘土と砂が互層をなして堆積している事実から、短期間に数度の洪水が発生したことを中西靖人氏は推定しているわけである。こうした状況は上述した亀井遺跡の場合、集落とは別の場所に流出して二次堆積した層の中に、前期と中期の遺物が撹乱されて共存しており、おそらく中期末に突如襲ってきた激しい洪水によって、中洲の上に位置していた低地性の一集落が、甚だしい被害を蒙って潰滅してしまったことを想像させる。前期から中期にかけてとにかく続いてきた集落が蒸発してしまって、もとの集落の所在地がわからず、その痕跡としては全然別の場所に堆積した遺物から推測するしか手がかりがないというのであるから、現代風にいえば畿内中部に発生した集中豪雨がもたらした大災害といったことになろうか。とにかく亀井遺跡の堆積状況からみると、さらに後期の終わり頃にも再び大洪水が生じたことを指摘できるというから、当時の河内平野は弥生時代を通じて度たび旧大和川が大規模な氾濫を繰り返すという、宿命的な危険地帯だったといえよう。