台地集落成立の一要因

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畿内の土器についていうならば、弥生中期は九州から伝わった前期の類型的、画一的な傾向を脱して、櫛目文様という独自の装飾技法を完成して流行させた充実期にあたり、これら低湿地に開かれた水田地帯が長期間水没したり、厚い泥層下に埋没することがなければ、もちろん水田の再開発にともなう集落の再建も可能であったであろう。しかし瓜生堂遺跡のように中期の包含層上に暗灰色粘土層・細砂層を介して、厚さ一・五メートル以上の砂礫層がおおっているのは、集落の移動を促した決定的な自然条件であったと考えられる。そしてこれは瓜生堂や亀井などの局地に限られた状況ではなく、およそ河内平野の低湿地全体を襲った苛酷な災害であったという広い見地に立って考えれば、弥生中期段階での石川谷への積極的な進出の背景には、水害を避けて新しい安全な立地条件を備えた居住地を求めるための、もう一つの動機が潜んでいたとせざるを得ない。大和盆地の水を集めて流出する大和川に比べて、石川谷を流域とする石川の沿岸は、その点でははるかに安全な地帯であった。しかも彼らはなお河岸段丘という台地上に集落立地を定めたのである。したがって河内平野が前期の段階で開発され尽くした結果、弥生人たちの奥地への開拓的進出が始まったというよりも、河内平野の自然条件を制御しきれなかったために、不幸にも反復して襲った洪水による被害に対して、一層安全な可耕地を求めての集落移動であったと解釈したい(89)。

89 河岸段丘の上に営まれた中野集落遺跡全景(南方よりのぞむ)