河内の土器文化交流圏

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喜志、中野の両集落遺跡が、河内平野に分布する諸集落と強い交流関係を結んでいたことは、両遺跡から出土する弥生式土器が、河内中・南部地域に共通した形態の土器文化圏に属している点からも察せられる。我われが入手できた喜志と中野の資料は、試掘にともなって出土した断片的な土器片にとどまり、まだその集落生活の構成を復原するに足る量に達していない。将来さらに資料の増加を待って、詳細な比較検討が試みられることに期待したいが、土器の胎土中に黒雲母あるいは金雲母といった特殊な鉱物の細末を包含することによって、従来から「河内の土器」として位置づけられてきた分類の基準にしたがえば、既採集土器片の約八〇%がこの特色をもち、茶褐色を呈する焼成の壺あるいは甕などの器形の土器に属している。これに対して別地域の供給地を求めなければならない土器として、白色ないし淡紅色を呈し、施文や胎土の区別できる壺、高杯などが残りの二〇%を占めている。

 これらの遺跡の東方に横たわる金剛・葛城山地を越えれば、わずか八キロで大和盆地に達し、その山麓地帯には竹ノ内遺跡などの弥生集落が分布している(90)。この河内、大和間の地域交流がどのようであったかという問題も、のちの古墳時代の成立につながる前提として、石川谷周辺との地域的交渉圏の究明は関心をそそることであるが、弥生時代を通じて石川谷は北方に開放された河内平野との交流関係は緊密であっても、大和盆地の西縁地帯とは比較的稀薄な接触にとどまっていたようである。弥生後期の大和の土器の特色ともいうべき長頸壺形土器が、太子町の一遺跡を除いては石川谷の中にまだ認められないことも、これを裏づけている。こののち前期古墳が出現する段階になって、社会的に河内と大和との交渉が成立してくるのではないかと考えられる。

90 河内(大阪府)と大和(奈良県)を隔てる二上山、西南方より遠望、手前に見えるのは太子町の推古天皇陵