弥生時代になって金属器が登場してきたとはいえ、日常の生活用具、とくに狩猟に用いられた弓矢や槍などの武器の鋭利さを保証したのは、依然として打製石器であった。縄文時代以来、矢の先端に装着されてきた石鏃、槍身の一端にツヅラフジのつるで結縛された石槍は、山野の動物を逐う日々の狩によっておびただしく消耗されるものであるだけに、当時まだ貴重な価値を有した金属によって、とって代わられることはできなかったに違いない。その理由はまだ日本列島内部で鉱石から金属を精錬する技術が存在せず、大陸や朝鮮半島から渡来した金属器をそのまま使用するか、せいぜい再加工する段階にとどまった結果、実用利器の発達を促進せずに、すでに述べたように金属器を宝器として、非実用的な祭器が出現することになったからである。
石器が日常利器として主流を占めた弥生中期という立場から、喜志遺跡について指摘しておかねばならないもう一つの特色は、これまでに表面採集された莫大な量のサヌカイトの打製石器と、現在でもおびただしく遺跡地に散布しているサヌカイト片のことである。すでに一九四〇年代に藤岡謙二郎氏は、喜志遺跡が大阪南部の弥生遺跡の中では、石鏃などの打製石器をきわめて多く出土することに注目し、一種の石器製作の工房址的性格を有するのではないかと推定した。喜志遺跡が一九〇〇年代の初頭に人びとに知られてから採集された石器は、地元の喜志小学校をはじめ、大学や博物館あるいは個人などに分有されているため、まとまった数として見ることはできないが、おそらく累計してみると数千個という数に達するものと考えられる。