石器の出土量のもつ意味

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ところがこの事実を、同じ弥生中期の集落址である河内平野中央の瓜生堂遺跡の場合と比べてみると、ここでは発掘総面積約二五〇〇平方メートルと遺物採集地四〇〇平方メートルの両方から、わずかに一五五点の石器しか出土しなかったという報告と著しく対照的である。すなわち河内平野の低地集落と、その奥の石川谷に位置する台地上集落との間には、石器をめぐってこのように顕著な差が認められるのはどうしてであろうか。

91 喜志道跡上からのぞんだ二上山雄岳(左)、雌岳(右)

 サヌカイトについては、すでに縄文文化の項で扱ったように、畿内では二上山麓に最も集中して産出する紫蘇輝石安山岩を指し、ほとんどすべての打製石器の材料として供給されたものであって、この傾向は弥生時代に移行しても変わることがなかった。ちょうど喜志遺跡が立地している石川西岸の河岸段丘上からは、東方の真正面の位置に二上山の雄岳、雌岳の秀麗な山容を仰ぎ見ることができる(91)。いわば喜志遺跡は弥生中期の段階で、二上山の西麓に近接した集落であったわけである。このサヌカイト産地に最も近いということが石器の原石の獲得、ひいては資源の独占に有利な条件となる点は疑う余地がない。しかし集落の性格を解明する上で二つの問題がある。一つは喜志遺跡が従来考えられてきたように打製石器の工房の役割をはたし、近傍の集落に製品を供給していたと言えるかどうか、さらにもう一つは弥生中期の段階で、これほど大量のサヌカイト製利器がどうして必要とされたかということである。ここで市内出土のサヌカイト製利器の一つとして石槍を取り上げることにしたい。先年、五軒家に近い羽曳野丘陵から石槍を一個採集している(144)。付近では弥生時代の遺跡はまだ発見されていないので、石槍だけの単独出土であるが、長さ二〇・六センチ、幅三・一センチ、厚さ一・四センチの大きさをもっている(考古三左端)。これについて置田雅昭氏から詳細な考察を得たので、以下に引用しておくことにしよう。

 

92 東板持出土石槍 (長さ13.9センチ)

市内において五軒家出土の石槍と類似の石器は喜志遺跡、東板持から出土している。喜志遺跡出土品は全長二二・二センチの完形品で、中期弥生式土器と伴出している。東板持出土品は正確な出土地点が不明で、伴出遺物も明らかではない。長さ一三・九センチ、幅三・八センチ、厚さ一・五センチある(92)。これらは五軒家出土品と作りや形態の上で類似するが刃部の、一部を磨りおとしたような状況は認められない。また、東板持出土品はとくに幅の広い点が他と異なる。

この種の石器には先端の欠損などのため再成されたものもあろうが、一応完存するものを長さによって例記すると次のようである。

二〇センチ以上  大阪府瓜破遺跡

一八センチ以上  大阪府池上遺跡・同東大阪市善根寺遺跡・奈良県一遺跡・滋賀県臨庄庵付近

一五センチ以上  奈良県宮瀧遺跡・同唐古遺跡・大阪府四ツ池遺跡・同勝部遺跡・兵庫県加茂遺跡・岡山県南方遺跡

         ・同落合町一色遺跡・鳥取県倉吉市上古川。

これらの石器は形態的に若干の差が認められるし、刃部をつぶした例や刃部をつぶさない例もある。南方遺跡、上古川の例は先端を残し両側縁の長さ一〇センチにおよぶ、刃部の大部分をつぶしていて、利器として使用し得る範囲は長さ五センチ前後で、刃部をつぶした例の中でも例外的である。

一般に石槍と呼ばれているものは、ほぼ長さ五センチ以上のものであるが、一五センチを越えるものは長大な類に属する。さらに二〇センチを越えるものは数が少なく、五軒家および喜志遺跡出土品は技術的にも秀れたものであることが知られる。

佐原真氏は「断面菱形を呈する長大な石槍」が、畿内およびその周辺に点々と分布し、その中心が奈良県、大阪府中央部にあると指摘している(佐原真「紫雲出」『香川県紫雲出山弥生式遺跡の研究』一九六四年所収)。このように長大な例品が、奈良県・大阪府に数多く認められるのは、おのおのの遺跡がサヌカイトの原産地とされる二上山に近く、原石が豊富に得られたという地理的条件に負う点も大きかったと思われる。

また、佐原氏はこうした石器が弥生時代中期に盛行するとしている。その後発掘された例をみても畿内第Ⅲ様式、第Ⅳ様式の土器に伴出している。

さて、この種の石器は古くより武器と位置づけられてきた。基部近くの刃部の磨滅に注意した佐原氏はこれを着柄のために施されたものと考えた。しかし、最近に至り、松沢亜生氏は実験的な成果をふまえ、この種の石器に木工具としての性格を見出している。すなわち刃部をつぶしたような状況は木工具の把部を意識した加工だと言う(松沢亜生「弥生時代の石槍と呼ばれる石器」『考古学ジャーナル』一二二・一二三号、一九七六年)

 石器の用途を解明することは重要な問題で、とくに当時の社会がどのような生業を主として行なっていたかという背景と結びつけて、石器のもつ機能を明らかにするのは、非常に大切な研究といえよう。ところが、もう一方では石器がどのようにして作られたのかという問題がある。石槍を取り上げてみても、鋭利な先端と刃をもつ利器とするために、堅い原石を慎重に打ち欠いて、少しずつ形がととのえられていったのである。