たとえば喜志遺跡から北方へ約七キロ離れた柏原市の大和川河床には、船橋遺跡という縄文晩期から室町時代の集落を主とする遺跡がある。先年、この河床の粘土層が水流で浸食されていく間に、沢山のサヌカイト片が一括して投棄されている遺構が露出したのを調査したことがある。遺構は直径五〇センチくらいの浅い小穴で、内部に約二〇センチの厚さにサヌカイトの剥片がぎっしりとつまり、中に中期に属する櫛目文様を施した弥生式土器の小片が混入していた。これらを採取していくと、サヌカイト片は大小さまざまの剥片からなり、とくに魚鱗状に剥離した小さな薄片が、大量に含まれていることに興味を覚えた(94)。しかもこれらの剥片に混じて、加工の過程にあったとみられる石槍の半折品をいくつか検出したので、小孔中のサヌカイト片は石槍の製作中に生じた加工屑を、一括して投棄したものと推定できるのである。
こうした点からみると、船橋遺跡でも、喜志遺跡と同様な石器製作の工房址が存在したといえるわけで、石器が多い理由をもう少し別の観点に立って検討する必要がある。兵庫県東縁に位置する川西市加茂遺跡は猪名川の中流域にある弥生中期の集落址であるが、喜志遺跡と同様に低地に臨む洪積台地に立地していて、背後に六甲山地、老ノ坂山地、丹波高地を控えた谷口を占めている。この加茂遺跡からもサヌカイト製石鏃、石槍をはじめ、閃緑岩、泥板岩製の各種石器が採集されていて、藤森栄一氏の言を借りるならば、同地の宮川雄逸氏の収集資料には「万を以て数える莫大な原石・破片・剥片・残核等がある」という。