佐原真氏はこうした現象が近畿中央部、大阪湾沿岸から奈良盆地にかけての地域にみられるとして、打製の石製武器が多出する傾向を指摘することによって、弥生中期に異常な争乱状態が発生した結果であろうと推定した。香川県紫雲出山遺跡の調査報告で、とくに畿内の弥生中期の打製石鏃を取り上げて形態の変化を分析し、すぐれた考察を行なうとともに、この頃から一部の集落が低地を離れ、水稲栽培に不適当な山腹地帯に移る高地性集落の出現と結びつけて上記の解釈を試みたのであった。氏によると中期の大部分の時期には凸基式の無茎、有茎の二型式が打製石鏃の約九割を占め、残る一割が凹基、平基式群にすぎないという。喜志遺跡では五四個の石鏃のうち、凹基無茎式は四個で、平基無茎式を欠き、凸基無茎式は三〇個、凸基有茎式は二〇個に達していて紫雲出山遺跡と同様な特色を示している(95)。