弥生中期に打製石鏃や石槍などの、武器として使用することのできる遺物が増加する理由を、社会的動揺がもたらした闘争の激化に求めることは興味のある解釈である。しかし実態をみると、より一層社会不安の影響を受け易かったと考えられる河内平野の中央部に位置した瓜生堂のような大集落が案外こうした打製石器に乏しい事実は、もし石器に代わる別の材質による武器が使用されていたというのでなければ、集落間の対立と武力衝突がこの時期に多かったということにはならないのである。
遺物や遺跡の状況から当時の政治情勢を推測することは大変困難な場合が多いが、弥生中期のこうした推論は、中国の「後漢書倭伝」中で、後漢の桓帝(西暦一四七年~一六七年)、霊帝(西暦一六八年~一八八年)の頃に、「倭国大いに乱れて、たがいに攻伐しあい、歴年主なし」と伝える西暦二世紀後半の記事をもとにしている。こののち倭国はともに卑弥呼という女王を立てて邪馬台国となるわけであるが、戦後畿内の弥生中期の社会を、この邪馬台国の成立と結びつける立場から、さまざまの仮説が生じた。しかしその後の資料の増加にもかかわらず、両者を直ちに結びつけていく方向に発展していないので、現在の段階ではまだ定説と称することのできるものはない。