高い次元から考古学資料を解釈し、歴史的位置づけを試みることは有意義なことであるが、喜志遺跡の場合、石川を臨む台地上にあるとはいえ、高地性集落ということはできない。したがって、喜志の集落に住んでいた弥生人たちが、この大乱の渦中にあって闘争のためにだけ打製石器を準備していたとは直ちに断定できないものがある。それでは打製石器が増加することを経済的現象としてとらえて、石鏃あるいは石槍が当時の経済的要求を満たすために使用されたものとして考えてみるとどうであろうか。弥生中期は河内平野の集落にとっては、洪水による水害が一時期を画するほどの影響をおよぼしたことをさきに明らかにした。その結果たんに住居を失って集落を移動するというだけでなしに、彼らの食生活を支える農業生産物の被害は、飢餓の怖れをもって彼らを脅かしたにちがいない。その食糧不足から家族を守る唯一の手段として、女、子供は山野に食用植物を探し求める一方、男は再び弓矢と槍を手にして狩猟に赴くことで解決したとすれば、大阪平野周辺部の弥生中期の遺跡にこの種の遺物が増加する現象の一斑は解釈できる。
先年、藤井寺市国府遺跡を発掘して、弥生中期の包含層をおおって、厚い獣骨片の層があることにすこぶる奇異の思いをしたことがある。これらの獣骨中に混じていた歯牙から、大部分がシカとイノシシであることも判明したが、獣骨は食用に供したのちの廃棄物と思しく、すべて細かく打割され、炭化したものもあった。この獣骨層でおおわれていたために、国府遺跡では弥生中期の人骨が非常によく保存されたわけであったが(96)、中期にこれらの動物を大量に捕食するためには、その手段として武器を大量に調えなければならなかったことも容易に首肯できるであろう。山間部の狩猟で得られた獲物は、平野部やその周辺の集落にもたらされて、貴重な蛋白源としての食糧となったことは想像に難くない。