弥生中期から後期にかけての社会が、東アジアの地域的変動の影響を、直接的あるいは間接的に蒙って、農耕共同体的な構造を変え、やがて政治的地域集団を結成する方向に発展していったという点で、注目すべき段階といえよう。この石川谷においても、中期の喜志遺跡に代わって、後期になると丘陵上に集落が形成されるようになる(97)。市内では彼方、滝谷A、同B地点と呼んだ遺跡などである。富田林市周辺では石川谷の北方からあげていくと、東岸の柏原市玉手山丘陵、五十村(いぶら)の両遺跡があり、羽曵野市では駒ケ谷狐塚のほか石川西岸ではチンチン山遺跡、上堂遺跡、高屋ケ丘遺跡、蔵之内遺跡(98)、尺土遺跡などがあって、西岸では比較的台地上の遺跡が多いが、この中には蔵之内、尺土のように丘陵上に立地するものもある。また東岸では羽曳野市御嶺山遺跡、太子町チンチの森遺跡、葉室西峰遺跡があり、河南町には東山遺跡がある。さらに羽曳野丘陵の西方の、富田林市に接する狭山町に茱萸木(くみのき)遺跡があり、南方の河内長野市には前述した塩谷遺跡とは別に、日東町の大師山遺跡がある。
弥生後期になって、石川谷を囲む各地に集落遺跡が急増することと、その大部分が丘陵上のいわゆる高地性集落と称してもよい立地を占めることとは、重要な問題である。ここでは本市に最も近い地域で、宅地造成に先立って比較的大きな規模の調査が行なわれた東山遺跡を例にとって説明しておくことにしよう。