A、B、D地区から同じ場所に再築していることによって重複したものも加えて、合計約三〇基に達する竪穴住居址を発掘した。これは地山の粘土層に浅く掘り込まれた床面の部分が残ったもので、平面形は円形と方形の二種が認められたという。円形の平面をもつ住居の規模は、直径が七メートルから九メートル程度のものが最も多く、床面には柱穴が九個ないし六個穿たれていて、これらの掘立柱で草葺き屋根を支えていたことが判明した。これに対して方形の平面をもつものはやや小さく、一辺の長さが五メートルから六メートルで、中には四メートルという例があった。注目すべきことはA地区で円形から方形に建物の平面が移行していることが確かめられた点で、B地区でも円形と方形が共存し、どちらかといえば、方形が後に現れて長く残った形跡があるという。内部の床面の中央には石を組んだ炉が設けられていた例もあり、同じ場所で三度も建て替えている例など、集落の生活の実態をうかがわせるものがあった。
A地区では一時期に平均三軒の住居が営まれていて、五期にわたることが推定され、B地区では一時期に六軒の住居があって四期におよび、D地区では一~二軒程度の小単位があったらしいという考察は、集落として最も規模の大きい時をとってみても、これらの地区は、一時期総計一〇単位の家族からなる集団が居住していたことを思わせる点で重要である(100)。その家族構成についてはよくわからない。C地区もほぼ同様で、重複しているものを含めると合計一六個分の竪穴住居址があり、ここでも一二個が平面円形で、他の四個が方形であること、平面形が円形から方形へ変化するという弥生後期の住居型式の移行が確かめられた。興味があるのは、集落内に二条の大溝が穿たれていて、これを境に三区画に分かたれていたことで、調査概報では二軒を一単位とする区画であったのではないかと推測しているが、集落内部の住居構成の上で、はたしてどのような意味を持つものであったのであろうか(101)。