富田林市内の彼方、滝谷遺跡に対して行なわれた調査が、まだ試掘程度にとどまり、出土資料も大阪府教育委員会で整理中のために、上記のように最も近い東山遺跡の例を借りて弥生後期の集落遺跡の内容を説明した。今後に残された問題は、石川谷の丘陵各地に分布する小規模な後期の遺跡が、それぞれ小単位の高地性集落としての性格をもって登場している事実を、どのような歴史現象として意義づけて解釈するかという点であろう。たとえば河内長野市の大師山で、同様な高地性集落遺跡を関西大学で調査した報告の中で、網干善教氏は従来の解釈の中で倭国大乱という中国文献の記事がなお主流をなすことを認めつつも、この河内南部の石川谷あるいは大和中部の同種遺跡が、必ずしもそうした解釈を試みる上で妥当な性格を有していないとして疑問を提示した。いずれにせよわが国の古代政権の成立過程の中で、集落の統合を反映する生活組織の変化が認められるかどうかが重要なメルクマールとなるとすることにはやぶさかではない。
東山遺跡の概報において堀江門也氏は「弥生集落は、三世紀の初めに営まれたものであり、それも尾根を一つの単位とするまとまりのある村落で、その村落構成および立地の占有になんらかの統率者の力を考えさせる。しかしこの集落は半永久的なものではなく、一時的な避難のために作られたもので、彼らの本来の生活基盤は水田にあったものであり、避難のたびに山にのぼっては住居址を作り直し、山をおりるときには土器は投げ捨て鉄器は持ち帰ったと考えられる」として定住性を否定している(103)。素朴な解釈であるが、考古学の発掘者としての眼を通して、遺構と遺物の認識を深化していく立場からみると、この解釈は今もう一度我われがとらねばならぬ出発点かもしれない。倭国大乱の記事から資料を整理していくのは、かえって現在の段階では結論を先に設けて恣意的な解釈を発展させる結果となることをおそれる点を指摘しておきたい。
弥生時代がいつどのような形で終わりをつげて古墳時代に移行するかについては、まだ未解決の問題が多い。近年の発掘調査の成果で、弥生式土器が土師器に移る土器形式の変化は、器種の消長、器形、調整技法などにもとづく時期的細分によって次第に可能になってきた。とくに庄内式から布留式への発展をめぐる検討は、畿内地域を中心として弥生文化を終わらせた要因を解明する上で重要な課題である。弥生式第Ⅴ様式の器形はなおつぎの時代にも暫くは強い要素として残るが、一方では庄内式と呼ぶ新しい様式も成立してくる。甕形の口縁端部が丸く肥厚し、器体外面がハケで調整されていて、底部は丸底を呈する特徴をもつが、関川尚功氏らによると、この中で河内型に属する庄内式の甕は畿外周辺にも広く流通し、大和と並んで土器の出現における河内の先進性を指摘できるという。ただこうした点での河内の地域性は旧大和川の流域を中心としていて、石川谷の中・上流域に関しては今後の地域調査に期待するところが大きい。日常のありふれた土器の形式変化と古墳の出現とは、一見したところ全く次元の異なる現象のように考えられるが、生活環境と社会組織の変化が土器の製作と流通に影響を与え、その地域社会を背景に各地に古墳が成立してくるわけである。石川谷が河内平野の地域に比べて、どのように対応しつつ新しい古墳時代に入ったかという問題について、次章で改めて取り上げることにしよう。