集落遺跡の増加

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市内に分布する遺跡は弥生時代中期・後期に属し、まだ前期にさかのぼる確実な例は認められない。主要遺跡の中には喜志遺跡や中野遺跡のように、近年の調査で次第に内容が明らかになってきた大きな規模の集落址があり、前述した錦織遺跡などを縄文時代のほんのささやかな住居とすると、これらの遺跡は弥生時代の本格的なムラと称するのにふさわしい。彼方遺跡も早くから後期の弥生式土器片の散布地として注目してきたが、一九七三年に大阪府教育委員会が一部の地点を発掘調査して、相当の規模をもつ後期の集落遺跡であることを明らかにした。また原田遺跡は遺物の散布状況からみて、市内西南部を占める錦織地区の主要な集落遺跡と予想できる。

 一九七一年以降、市内のほぼ全域にわたって分布調査を実施したところ、この他にさらに二十数カ所の地点で、土器片をはじめ各種遺物の散布していることが判明した。採集遺物の大部分は土師器・須恵器など、比較的新しい時代に属しているものの、弥生式土器片や石鏃をごく少量ながら含んでいる場合があり、場所によってはサヌカイト片の散布を認めた地点もある。今後これらの地点を発掘調査する機会があれば、弥生時代に始まった集落遺跡となる可能性もあると予想されるものの、現在の時点ではどのような遺構が埋蔵されているのかよくわからない。したがって喜志遺跡や中野遺跡などと同等の性質をもつ遺跡として扱うには、資料が不充分である。本節では喜志・中野・原田・彼方の諸遺跡を遺跡各説の中で取り上げ、その他の地点に関しては遺跡分布図と対照して、遺跡名と所在地、および採集遺物を列挙しておくにとどめる。ただし、これら諸遺跡の多くは主として土師器・須恵器片を散布していて、むしろ古墳時代以降の集落遺跡の例として注目すべきものがあるので、改めて第六章において解説を試みることにしよう。