遺跡の分布図をみると、遺跡は石川谷に沿って分布していることがまずわかる(107)。石川西岸では段丘上に遺跡があって、とくに市内の北部と南部に点々と集中する傾向を指摘することができる(104)。これに対して羽曳野丘陵上には集落址の可能性をもつ遺跡の存在を認めないことに注目する必要があろう。北方の羽曳野市では蔵之内といい、尺度といい丘陵上に後期の遺跡があるわけだから、市内の羽曳野丘陵上に本当に存在しないのかどうか検討すべき問題である。
石川東岸では板持・彼方地区の石川の氾濫原に接した微高地上と、その平地を眼下に臨む河岸段丘、丘陵上に後期の遺跡が分布している。興味があるのは、石川の支流の佐備川に沿って、狭い川筋に遺物が広く散布していることである。この遺跡の性質がどういうものかを究明するのは、今後に残されたもう一つの大きな課題といえよう。
この市史執筆の終了段階になって、本市域内の集落遺跡に対する調査で重要な発見が相次いだ。いずれも地域開発事業にともなって、大阪府教育委員会が主体となって行なった事前調査によるものである。
まず甲田地区で国道三〇九号線の新設工事に先立つ道路敷内の発掘で、弥生時代およびそれ以降のいくつかの遺跡が発見された。とくに石川西岸に近い低い台地縁に沿って、弥生前期に属するとみられる古い土器が出土し、従来石川谷の弥生文化の開始を弥生中期からと解してきた見方を改めて、もう少しさかのぼると見なければならない点で、新たな一石を投じた。とりわけこの調査地点がこれまで弥生式関係の遺物を発見したことのない地域だけに、今後喜志・中野など大規模な集落遺跡との比較検討を期待したい(105)。
弥生前期の遺物の発見に関連して、その前段階の縄文晩期の遺物も出土したことを紹介しておこう。一九八一年五月から七月にかけて錦織南遺跡の発掘が同委員会の手で行なわれた。遺跡は近鉄滝谷不動駅の西南方六〇〇メートルの地点にあたり、錦織台地の南縁に接した帯状の低湿地で、現在一条の小川が流れている。概報によると、変電所予定地内を発掘したところ、表土下一・二メートル前後の深さで幅一四メートルの旧河道があり、この一部に縄文晩期の遺物の堆積が認められた。
遺物は晩期の無文の縄文土器と、石鏃・石斧・石棒・凹石・叩き石などのほか、赤色顔料の付着した石皿があった。とくに土器の中に、亀ケ岡式の文様をもつ土器片が含まれていたのは注目すべきことである。亀ケ岡式というのは、東北地方を中心に発達した晩期の土器文化で、その影響が関東・東海・北陸から近畿の一部にかけて、土器の流入あるいは文様の伝播として認められる。今回、錦織南遺跡から出土したのは一個体の破片にすぎないとはいえ、分布の西限にあたるという点でその意義は大きい。口縁端に二個一対の小突起をつけ、三条の平行沈線の間に刻目を施し、器腹上面に雲形文をめぐらすなど、亀ケ岡式土器の中でも中頃の大洞C1式に最も近いのではないかと推測できるが、この詳細な考察はもとより正式の報告にまたねばならない(口絵参照)。
市内弥生関係遺物発見の遺跡地名表
喜志遺跡 喜志町四丁目木戸山町 弥生式土器・各種石器・土師器・須恵器など
粟ケ池散布地 桜井町二丁目 サヌカイト・須恵器
中野遺跡 中野町二丁目 弥生式土器・各種石器・土師器・須恵器など
新堂遺跡 中野町一丁目若松町西三丁目 弥生式土器・石鏃・石槍・土錘・瓦・サヌカイト
五軒家石槍出土地 五軒家 単独出土
甲田遺跡 南甲田 弥生式土器・石器
原田遺跡 錦織 石鏃・石匙・土師器・須恵器
錦織寺池遺跡 錦織 弥生式土器・石槍・土師器・須恵器・瓦
錦聖遺跡 錦聖町 弥生式土器・石鏃・土師器・須恵器
錦織南遺跡 錦織 石鏃・土師器・須恵器
梅田遺跡 西板持 弥生式土器・須恵器
西板持遺跡 西板持 弥生式土器・サヌカイト・須恵器・瓦
彼方(彼方)遺跡 彼方 弥生式土器・土師器
彼方(中ノ平)遺跡 彼方 弥生式土器
彼方(ジョ山)遺跡 彼方 弥生式土器・土師器・須恵器
彼方(インノ谷)遺跡 滝谷 弥生式土器
彼方(西山)遺跡 滝谷 弥生式土器
柿ケ坪遺跡 下佐備 弥生式土器・石鏃・須恵器
佐備川流域遺跡 上佐備・竜泉・甘南備 石鏃・サヌカイト・土師器・須恵器・瓦器
平木遺跡 東板持 弥生式土器
尾平遺跡 東板持 弥生式土器・石鏃・サヌカイト・土師器・須恵器
別井遺跡 北別井・南別井 弥生式土器・石鏃・石槍・サヌカイト・土師器・須恵器・瓦
(富田林市教育委員会分布調査資料による)