本概説中ですでに明らかにしたように、喜志遺跡は市内北端の河岸段丘上に位置する弥生時代の集落遺跡として、この石川谷では学界に最も早く知られた遺跡の一つである。遺跡は石川中流域西岸の標高四八メートルの河岸段丘上にあり、さらに北方に延びて羽曳野市東阪田に達し、標高四〇メートルまで下る台地の北端におよんでいる(108)。
従来、この遺跡を一連のものとみる考え方に対して、東阪田の南端付近で南北二つに分かれるものとみる立場とがある。もし遺跡の範囲を喜志から東阪田一帯に続くと解釈すると、南北一キロ、東西三〇〇メートルの広さをもつことになる。ところが、近年大阪府教育委員会による分布調査の結果では、南側の喜志地区と北側の東阪田地区との間は遺跡が不連続で、それぞれの地区ごとに区別できるという。この場合には喜志遺跡は南北約五〇〇メートル、東西約三〇〇メートル、東阪田遺跡は南北約四〇〇メートル、東西約二〇〇メートルの散布地をもつ別個の集落遺跡となる。後者の東阪田遺跡からはやや時期のさかのぼる弥生式土器が出土し、少量ながら晩期の縄文土器もともなうというので、事実とすれば、南方の喜志遺跡とは集落の形成過程の異なる遺跡とする根拠となろう。なおその場合にも、喜志遺跡の分布範囲には、東北部の一画、南北三〇〇メートル、東西一五〇メートルの地域が行政区画上羽曳野市東阪田に属していることを注意しておきたい。本市史の中で東阪田の調査を喜志遺跡の調査例として引用するのは、そのためである。