喜志遺跡の範囲と内容についての我われの観察では、喜志小学校の北方二五〇メートルの地点を中心として、半径約二〇〇メートルの範囲にとくに集落遺構が密集しているようである。遺構は竪穴住居址とそれに関連するピット状掘込みがあり、V字状断面の溝がその間を縫って縦横にめぐっているらしい。また埋葬遺構のある可能性も強いが、この解明は今後の調査にまたねばならない。石器その他生産遺構の分布と、集落組織に関する体系的な考察のためにも、調査成果の集積が必要であろう。
遺跡のほぼ中央を貫いて南北に走る国道一七〇号線に沿って、北限は羽曳野市東阪田に達し、南限は喜志小学校の北側で終わっている。一九八〇年夏に、市教育委員会が小学校校舎の増改築工事に先立ち、敷地北側の発掘調査を行なったところ、ほとんど遺物の分布をみないことが判明した。すなわち旧地表下〇・五メートルの茶褐色砂礫と黄褐色粘土からなる地山面上に、ところどころ暗褐色の包含層のごく薄い広がりをみたものの、弥生時代の遺構と遺物は全く検出しなかった。かえってその上に客土した堆積土中に若干の遺物を含む有様で、北方の遺跡中心部とは様相を異にしている(109)。