遺跡の東西両限

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遺跡の西方は国道一七〇号線から近鉄長野線に向かって、二メートルの比高差で緩やかに低くなっている。この地域はまだ試掘調査していないが、喜志小学校西側の国道一七〇号線五つ辻から北方二〇〇メートルの喜志町三丁目と四丁目の境界付近にも遺構があるらしい。すなわちかつてこの線路との中間地点で灌漑用水路の改良工事を行なったところ、溝状遺構のほか、厚い包含層の幅広い堆積があり竪穴住居址かとも推定できる遺構を隣接して二カ所検出した。この地点から多量の弥生式土器のほか、石包丁・石槍・石小刀とおびただしいサヌカイト屑が出土したと伝聞しているので、遺跡の範囲は少なくとも線路際まで達していることは確実である。

111 喜志遺跡から東阪田遺跡(羽曳野市)にかけての遺跡空中写真 (東南方より、中央は国道170号線)

 これに対して東方は、中央がU字状にくびれた台地東縁の段丘崖で終わるものと考えてきたが、近年になって地元の採集遺物を検討してみた結果、遺跡の東南隅がさらに延びることが判明した。すなわち木戸山町の集落をこえて、喜志一丁目の市営プール西側の低い台地上にも遺物が散布している。この地点は標高四〇メートルで、石川の氾濫原との比高差は三メートルほどにすぎない。採集遺物についての解説は後述する。試掘調査を全く行なっていない地域であるため、どのような状況で遺構が残存しているのかまだわからない。

 さて喜志遺跡は比較的早く学界に知られたにもかかわらず、遺跡の内容については長い間不明であった。一九七〇年代になってようやく調査の緒が得られ、まず本市教育委員会の小規模な試掘調査のあと、近年、大阪府教育委員会による本格的な発掘調査が相次いで実施された結果、著しく遺跡の解明が進んだのは欣快にたえない次第である(110)。ここでは一九七〇年以降の主要な調査成果を中心として簡単にふれておくことにしよう。

110 喜志弥生遺跡発掘調査地点地域図