一九七〇年三月に、喜志小学校北方約一五〇メートルの木戸山町地内にあたる台地東縁で、市教育委員会による遺跡範囲確認のための小規模な試掘調査をまず行なった。この地域はまだ住宅建設のおよんでいない約三ヘクタールのほぼ中心で、当時東高野街道から東方に新たに設けられた広域農道のすぐ北側であった(110)。その試掘面積は三地点で計二五平方メートル余りにすぎなかったが、このうちB2トレンチでピット一〇カ所、溝状遺構一カ所を検出した。遺構の状況から弥生時代集落の一部で、住居址の一端に接している可能性が強いと判断され、この地域全体を現状のまま保存することが望ましいとの結論をえた。調査概要はあとの樋口吉文の報告に譲ることにして、出土した弥生式土器が畿内第Ⅲ様式に属し、別にA1トレンチ・B1トレンチの状況から弥生当時の文化層が後世の撹乱をうけ、土師器・須恵器あるいは陶磁器が混入している場所もあったことを記しておく(112~114)。
出土遺物は石鏃一四、石槍二、石包丁一、皮剥三など多量のサヌカイトと、弥生式壺形土器二、高杯脚部その他の土器片とである。この中で石槍一本は長さ二二センチに達する長いものである。