一九七一年一月になって、今度は小学校から北方二〇〇メートル余りの、羽曳野市東阪田との境界に近い水田中に暗渠埋設工事が行なわれた。この工事は東西方向に長さ四八メートル、幅二メートルにおよぶ長大なもので、事前に埋蔵文化財の調査を実施できていたならば、遺跡の内容を明らかにする上で好都合なトレンチ発掘となっていたと考えられるが、我われが知ったのは残念なことに掘鑿作業が行なわれたのちであった。したがって掘鑿にともなう排土中に混じたおびただしい遺物を収容するにとどまった。さらにその後暗渠工事が中止されて、直ちに埋め戻しをしなければならぬ事情が生じたので、溝底の一部の調査と南北両壁の略測を試みた程度で、遺構の検出部分を周辺に拡大して調査することはできなかった(116)。