暗渠の方向は磁北に対して東方に九七度の角度で走り、西端は東高野街道の道路東肩に接している。いまこの西端を起点として北壁の断面で観察した状況を記しておくと、まず一〇メートル離れた地点では表土一六センチ、その下に遺物の包含の少ない茶褐色の床土が一九センチあり、その直下が厚さ一五センチの包含層となる。包含層の下は茶褐色砂礫質の段丘層である。起点から一二メートルほどの間はこの状況で大きな変化は認められないが、二四メートルほどの地点から約二メートルの範囲で地山の落ち込みがある。すなわち表土一四センチ、茶褐色床土一五センチ、茶褐色粘土層二〇センチと続き、その下に三〇センチの深さに浅くU字形に黒褐色有機質の落ち込みがあって、土器片など多量の遺物を包含している(117)。
起点から三二メートルの地点で表土一四センチ、茶褐色床土一五センチ、黒褐色包含層四〇センチとなり、その下が深さ五〇センチに近いV字状断面の溝となる。この溝中に後述するように完形の甕形土器をはじめ各種土器片が堆積していて、すべて第Ⅱ様式段階のものである(125)。上層の包含層の土器が第Ⅲ様式に属することから、このV字溝の形成は喜志遺跡では最も古い時期にさかのぼることになる。V字溝以東は包含層の厚さも三五~四〇センチで地山面に複雑な小凹凸が認められるが、遺構としてどういう意味をもつものなのか判定できない。暗渠は調査当時一メートルの深さで掘鑿されていたので、前述のV字溝を除いて溝底での遺構面は遺憾ながら削り取られていたのである。三六メートルの地点でも三二メートルのところとほぼ同様のV字溝が認められ、溝底に多数の土器片の堆積をみたが、すべて第Ⅲ様式に属するものばかりで、溝の形成時期は新しいと思われる。なおこの溝はほぼ正しく南北方向に走っているらしい。
終点の四八メートル地点では表土一三センチ、茶褐色床土二二センチ、茶褐色粘土一五センチで遺物の包含は少なくなり、その下が厚さ四〇センチの段丘層上部の黄褐色粘土層となり、下部の茶褐色砂礫層と続いている。断面だけの所見では正確さを欠くが、地山面は西方で最も高く、東方に向かってごくわずかずつ低くなる傾向が認められ、この地域での集落関係遺構は西端より三〇~四〇メートル付近を中心とするかと考えられる。出土遺物は石鏃一九、磨製石鏃片一、石錐三、石槍九、石斧片一、石小刀二、石包丁三、刃器類六があり、上層出土品に碧玉岩質管玉一がある(118)。なお土器片は第Ⅲ様式古・新のほか、第Ⅱ様式新段階のものを含んでいる。これらについての観察は、あとの記述を参照されたい。