一九七七年に大阪府教育委員会は、喜志遺跡の東北角を占める羽曳野市東阪田地内で開発にともなう緊急発掘調査を行ない、第二地区と称した東阪田三九七番地で、住居址と推定される遺構の存在を明らかにした(芝野圭之助・渡辺昌宏『喜志遺跡発掘調査概要』大阪府教育委員会 一九七八年)。住居址は四カ所あって、1・2・4各号址は第Ⅲ様式の段階に営まれた円形平面をもつ竪穴住居の構造である(86・119)。1号址は直径七・二メートルの大きさで、中央の遺構をおおう土の中に木炭層がはさまっていて、住居が火災に遭ったためかという。また内部に河原石を台石状に置いている。2号址は直径約六メートル、4号址は直径約五・七メートルある。これに対して3号址は方形平面で、東西の長さ約四・五メートル、南北の奥行約六メートルの隅丸長方形をなし、内部に炉跡とみられる焼土の堆積が認められた。この3号址の時期は前記の三基の住居址に比べるとやや新しい感を与えるもので、報告の中でも第Ⅲ様式かあるいは「比較的新しい時期になる可能性を有している」と考察している。
弥生式土器は第Ⅲ様式の古・新両時期と、第Ⅳ様式を若干含んでいる。石器は第二地区の約八〇〇平方メートルの発掘区域から石鏃八、磨製石鏃(材質粘板岩)一、石錐二、石槍五、石包丁三、大型石包丁二、扁平片刃石斧三(うち未製品二)、太型蛤刃石斧?一、砥石二、各種不定形石器若干があり、土製紡錘車二点も出ている。