一九七九年に大阪府教育委員会は喜志小学校から北に約二五〇メートル離れて、国道一七〇号線と東高野街道にはさまれた開発地域の緊急調査を行なった。その結果、土壙・焼土壙・井戸・溝などの弥生中期、第Ⅲ様式の段階に属する各種遺構に関して注目すべき発見があった(尾上実『喜志遺跡・東阪田遺跡発掘調査概要Ⅲ』大阪府教育委員会 一九八〇年)(120)。
この地点の発掘範囲は南北の長さ約四〇メートル、東西の幅約一七メートルで面積約七〇〇平方メートルにおよんでいる。地域内における旧地山の微地形は北東で最も高く、南西に向かってわずかに傾斜していて、遺構も西南部を中心に遺存状況がよかったという。七個の土壙は点々と散在して検出されたが、その中で土壙3と称した小遺構にはサヌカイト片が集中して投棄されていた。土壙は〇・九×一・二メートルの楕円形で深さ一五センチあり、内部にサヌカイト片四七・六キロが堆積していて、比較的大きな剥片と石槍の破損品一点が存在した。