遺跡層位の状況

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さてこれらの成果を紹介したのちに、改めて一九七〇年に市教育委員会が遺跡の範囲確認のために調査した概要を、報告しておくことにしよう。

 一九七〇年三月の喜志遺跡の調査は、喜志小学校の北方一五〇メートルで、地番は富田林市木戸山町五七九番地の水田地域において行なった。この付近の地形は、河岸段丘崖を東側にひかえた段丘上の平地で、標高は約五〇メートルある。

 調査は、まず、ボーリング棒により土層状態を調べたのち、遺構、包含層のある可能性の強い部分にトレンチを設定した。なお、地区名は、現水田の畦畔区画別にしたがって、西よりA・B地区と呼称することにする。調査地点周辺の土層は、大部分が耕土直下が砂礫層からなる地山になり、局部的に地山が落ち込む部分が認められ、トレンチはこの落ち込み部分について、A地区に一カ所(A1)、B地区に二カ所(B1・B2)の計三カ所を設定し、必要に応じて拡張した。

122 喜志遺跡出土弥生式土器櫛描文様拓本、 1)扇形文 2)簾状文 3)擬似流水文

 A1トレンチ

 A地区南端部に、東西長さ四メートル、南北幅一メートルの長方形に設定した。層序は、耕土(第一層、厚さ約一五センチ)、床土(第二層、厚さ約一〇センチ)、暗褐色土層(第三層、厚さ約四〇センチ)となり、この直下で地山の砂礫層を検出した。地山の上面は北西方向にレベルを高めているので、トレンチは落ち込みの北西傾斜面にあたると考えられる。

 さて、この落ち込みの時期については、第三層の暗褐色土層より土師器や須恵器片を出土していることにもとづいて、古墳時代後期に属すると考えられるが、土層の状態は、砂礫の混入が多く、単一包含層とは認めがたい。また、地山の状態から見ても、後世の整地によるものと解するのが妥当であろう。

 A1トレンチにおいては、トレンチ中央部分の第二層(床土)直下より、石鏃が一点、第三層(暗褐色土層)中より、須恵器片、土師器片、弥生式土器片が少量、第一層(耕土)~第三層よりサヌカイト片が出土したが、第三層の状況は礫が混入し整地されて、遺構をまったく確認できなかった。またトレンチ西方部に礫の集積があり、それより西北方は砂礫層になっており、この落ち込みの終端部をなしていると考えられ、その状態が北東から南西の方向に続いていると思われたので、改めてB地区の南端部の落ち込みの部分に、B1トレンチを設定した。

 B1トレンチ

 B地区西南端付近の落ち込み部分に、東西長さ五メートル、南北幅一メートルの長方形に設定した。層序は、耕土(第一層、厚さ約一五センチ)、床土(第二層、厚さ約一〇センチ)、暗褐色土層(第三層、厚さ約二五センチ)、黄褐色土層(第四層、厚さ約五〇センチ)、淡褐色粘土層(第五層、厚さ約五〇センチ)となり、耕土下約一・五メートルで地山を検出した。

 遺物は、第四層に集中して検出され、陶磁器、須恵器、土師器等の土器片、石包丁、石槍等の石器類を出土した。第五層においては、真上に磁器片を少量出土したほかは、なんら検出されなかった。さらにこれらの遺物の包含状態とあわせて、この部分の落ち込みについては、ボーリング棒による調査で、東西に狭く、南北方向に続く落ち込みであり、第五層の淡褐色粘土は、他の土層に比し、砂礫の混入の少ない単一粘土層であることが指摘される。

 B1トレンチにおいては、第一層(耕土)第二層(床土)第三層(整地層)第四層(黄褐色土層)よりそれぞれサヌカイト片が、また第四層より、片岩製の石包丁一、石槍一、皮剥一、須恵器片、土師器片、弥生式土器片が出土したが撹乱されている。第四層下より淡褐色の粘土が七センチの厚さで敷いてあり、その下が地山になっていた。この粘土のすこし上より新しい磁器片が出土したので、もと溝が造られていた可能性があり、それも最近までつかわれていたと考えられる。遺構はあったとしても、この溝を造る時に破壊してしまったと考えられる。またトレンチの西端より約一メートルの地点から地山が傾斜して、三〇センチ程高くなり、溝の西端部をなしていた。第一層(耕土)、第二層(床土)に遺物の包含はなく、第三層(整地層)中には、六世紀のものとみられる須恵器片と土師器片が出土した。その直下のトレンチ北部は文化層となり、南部は黄褐色砂質層で、その境はトレンチ内部を北東から南西に斜断していて、両者は明瞭な区別をなしえた。この黄褐色砂質層の上面にはピット九個がほぼ文化層に接し、相互に若干の間隔をおいて穿たれていた。

 文化層は黒色の粘性の大きな有機質土で、その中から大型石槍一、小型石槍一、石鏃一三、皮剥二、弥生式土器の壺、高杯片が多量に出土した。この文化層は上下二層に分かれており、遺物はその上下の接する部分にとくに密集していた(114)。文化層の底面は南側の黄褐色砂質層の上面より低く約四〇センチの差があった。一方、この文化層の幅を確かめるためトレンチ北端から北へ、一×五メートルのトレンチを設定して延長したところ、一・五メートル北寄りの部分から地山が高くなって北方に続いていた。したがって文化層の堆積した部分は、もともと溝であったと推定され、この遺構が北東、南西に走っているとみられるのである。また溝の北端より北側は、耕土下がすぐに砂礫層になる状態が続いていた。トレンチ南側、黄褐色砂質土層上のピットは九個あり、そのうちのP1、P2、P3、P4が柱穴であり、それぞれの深さはP1二八センチ、P2二七センチ、P3二九センチ、P4三〇センチ、P5二二センチ、P6三〇センチであり、住居址のようなものがあったと考えられ、柱間はP1~P2は一・三メートル、P1~P3は二・三メートル、P1~P4は二・七メートルであった(113)。この黄褐色砂質土の部分は、東方のB1トレンチにおいて全く確認できず、南は道になっていたがその道の南側においても認めるに至らず、北は溝になっているのでかなり狭い範囲しかなく、また良質の砂質土であり、地山の落ち込みの部分に盛土したものと考えられ、砂質土の部分はトレンチ東北隅において溝の部分に流入していた。その状態から見てこの部分より曲がっていると考えられ、西部端は確認できなかったが、住居址の柱間P1~P4の二・七メートルを参考にするならば広さは五メートル内外と考えられる。また周溝の存在は認められなかったが、住居址が溝状遺構より上にあるため、溝状遺構が周溝の役目をしていたためと考えられる。

 遺物としては石鏃一四、大型石槍(全長二二センチ)一、小型石槍(全長八センチ)一、片岩製石包丁一、皮剥三、壺二個体分、弥生式土器片一括、高杯の脚部などで、壺には櫛描直線文、簾状文、および波状文があり、いずれも第Ⅲ様式(古)の土器に属し、黒雲母を多く含み、また石英および長石を粘土に混じている(115)。

 B2トレンチ

 B1トレンチから西へ一メートル、B地区南端部に東西幅三メートル、南北長さ五メートルの規模で設定した。層序は、耕土(第一層、厚さ約一五センチ)、床土(第二層、厚さ約一〇センチ)、暗褐色土層(第三層、厚さ約五〇センチ)となって、弥生時代の遺構面に達した。

 遺構は、トレンチ南側、黄褐色粘土層上にピット一〇カ所、北側に溝一カ所を検出した。ピットは径約四〇センチ、深さ約三〇センチを測る柱穴とみられるものが五カ所ある。内三カ所は、北東から南西方向に約一・八メートルの等間隔をおいてならび、住居址の一部にあたるとも考えられるが、その配置はやや不規則であって、調査範囲も全面におよばなかったため、即断をさけておきたい。溝は、幅約三・七メートル、深さ五〇センチを測るU字溝で、南西から北東方向に連なる部分を検出した。隆起部分は、北側は砂礫層、南側は黄褐色粘土基層により分けられ、埋土は黒褐色土層を基調として、上下二層にわかれる堆積が見られた。本トレンチ内の遺物の大部分はこの溝より検出され、とくに層の境、底部に集中していた。また、時期については、畿内第Ⅲ様式の古段階に属する単一様式に限定しうる土器で占められているので、この地点の溝と、伴出した石器については、限定された時期を考えることができる。