石器はしいて分けるならば、狩猟具として石鏃一三、石槍一六、工具として石錐四、石小刀一、不定形石器五、太型蛤刃石斧一、敲石二、砥石二、収穫具として石包丁三、祭祀具として磨製石鏃一がある。これらの製品のほかに、サヌカイトの剥片が、本V字溝出土の分だけでも二一六四点あって、喜志遺跡での打製石器の製作を裏づける。
石鏃は基部の形状からみて、凸基無茎式(123・1~11)と凸基有茎式(123・12~14)がある。本V字溝からの石鏃の出土例数は限られているが、大半が凸基無茎式のものに属し、これに反して、凹基式のものが認められないことは注目すべきことである。石槍は全体の形状からみて、木の葉形を呈する小型の石槍(123・25)、幅二・五センチ以上で並行した側辺をもつ中型の石槍(123・23)、幅三・五センチ以上の並行した側辺をもつ大型の石槍(123・27~31)がある。石錐はすべて頭部と錐部の区別が不明瞭で、棒状に近い形状の石錐(123・16・17)と逆三角形の石錐(123・18~20)がある。このなかには穿孔具として使用していたことを裏づける痕跡をもつものがある。すなわち、(123・17)の石錐で、先端から六・五ミリの範囲に回転痕がある。このほか、錐部側辺が磨滅したもの(123・19)もある。石小刀は先端が一方に反り曲がった形状のもので、この種石小刀としては大型品である。以上の打製石器は比較的形状の定形化されたものであるが、この他に一定の形状をもたない一群の石器がある。それらを不定形石器としてまとめるが、機能的には皮剥的な用途が考えられる。
太型蛤刃石斧は刃部に近い部分の破片で、縦方向に破損している。石包丁は直線刃半月形態の一点を除いて、あとは断片のため、形状は不明である。磨製石鏃は先端のみ残存している。
以上の土器および石器の包含状況からみて、このV字溝は第Ⅱ様式の段階で遺物の堆積が始まり、第Ⅲ様式の古段階にいたって急激に埋積が進みつつ、新段階におよんだ遺構と考える。これらの点からすると、一九七八年三月に、大阪府教育委員会が調査した本市喜志と羽曳野市東阪田にわたる集落遺構の中で、東端に南北に走るV字溝の状況と酷似していることが注目され、集落全体の景観を復原する上に重要な資料となるものであろう(渡辺昌宏『喜志遺跡発掘調査概要―羽曳野市東阪田・富田林市喜志所在―』大阪府教育委員会 一九七八年)。