喜志遺跡は従来から、石器が多く採集されているが、ここでは土井康雄・上原貴雄氏所蔵の資料と、渡辺氏旧蔵資料を簡単に紹介しておく。なお、上原氏所蔵の石鏃(128・1)と石槍(130・2)、渡辺氏旧蔵資料の柱状片刃石斧(131・2)と石包丁(131・4・5)は、羽曳野市東阪田で採集されたものである。
土井・上原両氏の資料は、二地点からの採集品で、それぞれA・B地点とする。A地点は喜志町一丁目の市営プール南西台地上で、採集品には石鏃七七(128・2~4・7~12・14~16・20~23・25~27)、石槍二、扁平片刃石斧一(131・3)、敲石一がある。B地点は喜志町四丁目で、採集品には石鏃四一(128・5・6・13・17~19・24・28~47)、石槍一六(130・1・3~12)、石錐五(130・13~17)、石小刀一(130・18)、石匙一(130・19)、太型蛤刃石斧一(131・1)、石包丁三(131・6・7・10)、手持ち砥石一がある。
各地点の石鏃について比較してみると、A地点採集の石鏃は、凹基式六一、平基式一一、凸基無茎式五で、凹基式が主体をなしている。ところが、B地点採集の石鏃は、凹基式七、平基式二、凸基無茎式一九、凸基有茎式一三と、凸基式が主体をなし、A地点より新しい形態の多いことがわかる。
本頁の図(132)は南西方向からみた河南橋と羽曳野丘陵を結ぶ地点の横断面図に主要交通施設と石器の採集地点を記入したものである。B地点は従来から喜志遺跡の立地として指摘されている中位段丘に位置している。ところが、A地点は従来の範囲より南に位置し、さらに、一段低い下位段丘に位置している。このことは言いかえると、喜志遺跡の開始にかかわる問題を提示している。すなわち、石川谷に進出した弥生人は、最初、下位段丘に住み始め、すぐ下の氾濫原で稲作を行ない、その後、より広い平地を求めて中位段丘に移ったのではないだろうか。そしてその際の耕作地として中位段丘と羽曳野丘陵の間の低地に求めたことも考えられる。(北野耕平・樋口吉文・忍薫)