第二章の調査研究史の項で指摘したように、この遺跡からの遺物の発見は古く一八九二年に学界に報じられた時にさかのぼる。山崎直方氏が『人類学雑誌』の中で「河内に於ける石器の新発見地」として、南河内郡新堂村大字中野から石鏃を採集したことを報じている(山崎直方「河内に於ける石器の新発見地」『人類学雑誌』七―七二、一八九二年)。しかしその後北方の喜志遺跡が、鳥居龍蔵氏の発掘や梅原末治氏の調査報告で周知のものとなったのに対して、中野遺跡は次第に忘れられた存在となった。一九七〇年に、建築工事にともなって再び遺物を発見したことが市教育委員会に連絡された結果、我われは中野遺跡を喜志遺跡とならぶ弥生中期の集落遺跡として、市内の埋蔵文化財に位置づけることができたのである。この際小範囲の試掘調査を行なって東西方向の溝状遺構を確かめるとともに、初めて遺跡の時期を確定する資料をえた。
さて遺跡は現在中野町一丁目、同二丁目、若松町五丁目にわたり、遺物の分布調査によると北は中野集落の南端に接し、南は新堂小学校の北側に位置する雇用促進事業団富田林新堂宿舎に至る南北約三五〇メートルの範囲である(133)。
東は石川に臨む広い河岸段丘の東縁に達し、西は国道一七〇号線にまで達していないものの、東西約四〇〇メートルの範囲に少しずつ遺物が散布している。東高野街道はこの遺跡のほぼ中央を南北に通じていて、遺跡を東西に二分する形となっているが、おそらくこれは河岸段丘上に南北に並ぶ集落を結ぶ微高地の線上をたどった結果であろうと考えられる(134)。街道に沿う住宅を除けば、遺跡にはまだ建物が少なく、遺跡の上に立つと、わずかに東方に向かって傾斜する段丘から石川を眺望することができ、正面に二上山を中心として金剛・生駒山地の景観を有する集落立地の条件は、喜志遺跡の場合と同様である。遺跡の中央での標高は約五六メートルで、石川の氾濫原は約四六メートルあるから、一〇メートルの比高差をもつ台地ということができる。なお中野遺跡から喜志遺跡までは約一・五キロ離れている。