一九七〇年の試掘調査についての概報は、遺構としてまとまったものなので、あとに収載することにしたが、遺物散布範囲の中央やや北寄りの地点にあたり、中野農業協同組合事務所前の東高野街道から四〇メートル東方に離れている。検出した溝遺構は北西から南東方向に走り、上面の幅は一・三~一・六メートル、深さ〇・七メートルのU字形断面を有している。溝中には第Ⅲ様式に属する弥生中期の土器片と石器類が堆積していて、上方には土師器および須恵器を含む新しい堆積層があり、部分的に平安時代後期から中世にいたる遺物も認められた。したがって、この地域が弥生時代以降、長期にわたる集落遺跡にあたる可能性は強いと考えられる。採集された土器片に櫛描簾状文をもつものが多いことが目立つほか、石器としては石鏃・石槍・不定形石器(皮剥を含む)・石包丁・敲石など、試掘面積が小範囲であったにもかかわらず、遺物の品目は多様である。なおこの試掘調査の際の出土遺物については、市史第四巻(考古編)収載の図版第九、一〇を参照されたい。