一九七九年になって、遺物散布地の西南隅にあたる東高野街道西側の農地が、住宅地として開発されることになり、東西約五〇メートル、南北約四〇メートルの不整形な敷地の調査を大谷女子大学で行なった(中村浩編著『中野遺跡発掘調査報告書』富田林市教育委員会 一九七九年)。その結果、弥生時代から歴史時代にかけての各種の遺構と遺物の内容が明らかとなり、あわせてこの地域の西半に青灰色粘土の厚い堆積層が広がっていたことによって、集落遺跡の西辺が、範囲は不明ながら沼沢様の湿地帯で画されていたのではないかと推測させるものがあった。
土器と石器など弥生時代の遺物が残存した当時の地表面には、多数のピット状小坑が分布し、土壙や溝状遺構も認められた。ただし旧地表をなす地山は段丘堆積の砂礫層が露出し、また上面がのちに削平されていた事情もあって、住居址の配列を復原するには困難がともなった。可能性としてピット群の配置状況から四基の住居址が推定できるといい、それぞれは五メートル内外の円形平面の住居とみられる場合が多いという。また井戸は二個あって、周囲のピット配置から井戸に覆屋がありえたことを想定している。土壙には弥生式土器片を投入していて時期のさかのぼることを思わせるものや、古墳時代後期の須恵器の甕片を遺存して甕棺墓を推測させるものもあったが、やはり通じて遺存状況がよくなかったのは残念である。注目すべきことは溝状遺構の一部について、方形周溝墓の可能性があると指摘している点であろう。この問題については埋葬施設の重要な要素として、将来も確実な例を調査する機会を持たねばならない。
同年一二月になって、遺物散布地域の東南隅にあたる台地の縁辺部が宅地造成されることになり、事前調査が市教育委員会の手で行なわれた。従来、この地点のごく限られた試掘調査で若干の遺物が出土して、調査の必要性は判明していたが、遺跡の中心とみられる地点から二〇〇メートルも離れているという事情もあって、遺構の内容は予測しがたいものがあった。
調査の結果多くのピット状小坑のほかに、浅くて幅の広い溝状遺構の末端と称すべきものが部分的に検出され、溝底に第Ⅲ様式に属する弥生式土器片が若干の石器とともに堆積しているのを発見した。ただ発掘地域全体を通じての所見は、遺跡の中心に近い部分に遺構と遺物が集中する傾向があり、こうした段丘崖に沿う地域は土器の細片を含む堆積層が形成されているほかは、生活遺構に乏しいことがいえるようである。