第一地点より約一〇メートル東側の側溝(第二地点)では、耕土が約二五センチ堆積し、その下位に礫を多く含んだ黒色土が四〇センチの厚さで広がっていたが、側溝北側は後世の撹乱が著しく南側に至ってようやく安定した層となった。この黒色土層内から、口縁部を南に向けて横転した土師質長頸壺(139・3)が出土した。この層下に赤褐色砂礫土の地山が堅硬な表面をなして全面をおおい、その地山面を切って側溝中央部から南側にあたり、第一地点より幅を拡げた溝を検出した。溝の南面は原形をとどめていたが北面は最近の撹乱により上面をかなり削平されていた。溝の幅は上面で一・六メートル、底面幅〇・七メートル、深さ約〇・八メートルを測り、第一地点同様、U字状をなして北西~南東方向に斜走していた。第一地点と第二地点の距離および方向を換算するとこの溝は第一地点で検出された溝と同一であり、その溝が上面幅を本地点で北側に拡幅した状況であることが明確となった。その溝の北側約一メートルの地で、住居址の一部かと思われる径約四〇センチのピットが認められた。溝内は暗褐色の有機質土が堆積し、第一地点と同様に第Ⅲ様式の弥生式土器などを多量に包含していた。ピット内からも弥生式土器の小片が出土した。