第二地点より東側に約一五メートル離れた側溝(第三地点)では、厚さ約三〇センチの耕土下に一〇センチの厚さの黄褐色粘土の床土が広がり、これを除くと茶褐色土層が約三〇センチ堆積していた。この層内からは、少量の弥生式土器とともに、瓦や羽釜形土器、土師器、須恵器など、平安時代後期から中世(室町時代前半期)に至る遺物が多量に出土した。本層下にはこぶし大の河原石を敷きつめ、その間隙を瓦片で埋めた状況の遺構が地山より一〇センチ上部に構築されていて、その下方に弥生式土器を混えた暗褐色粘質土があった。出土遺物からみて、この敷石遺構は寺院様建物にともなうものとも思われるがよくわからない。本側溝ではU字溝を認めなかったが、U字溝ののびる方向から考えると、側溝の南側を通ることになるからであろうとみられる。
立会調査並びに分布調査で採集した遺物は比較的多量で、弥生式土器・須恵器・土師器の土器類、石鏃・石槍などの石器類や瓦類と多様なものがある。