中野の須恵・土師器

183 ~ 185

須恵器には、古墳時代後期から平安時代までの甕・壺・杯蓋の破片がある。

土師器には壺・甕等の破片があるが、第二地点出土の長頸壺は、頸部外面を丁寧にヘラ研磨し、底部はヘラケズリしている。輪積みの痕跡もみられ、比較的古式の手法が用いられているものの、型式的には奈良時代に共通するものである(考古一〇―(3))。

 そのほか第三地点の敷石遺構に関連して瓦類が採集されているが、縄目・糸切り痕を有した平安時代後期の平瓦片から、室町時代の巴文軒丸瓦片や唐草文軒平瓦片があり、それと併行する瓦器椀や羽釜形土器片も少量含まれる。

 石器としては石鏃・石槍・皮剥・石包丁・敲石があり、石包丁は磨製で、他は打製である。材質は石包丁が緑色粘板岩、敲石が砂岩製であるのを除けば、すべてサヌカイトに属する。石鏃は凸基無茎式のほかに凸基有茎式かとみられるものもある。正背両面を小さく一次加工し、側縁を小刻みにトリミングする(140・1~3)。石槍は一次加工剥離の後に側縁をトリミングしているが、基部や正面に自然面を残したものがある(140・4~6考古九―(2))。石包丁は外弯背・直線刃型に属し、正背両面を丁寧に研磨し、中央に穿孔している(140・7・8考古九―(2))。皮剥は正背両面をあらく一次加工し、刃部のみ細かくトリミングしたものである(140・9)。敲石の上・下端面には敲打痕がみられ、細長い円礫を使用している(考古一〇―(2))。

140 中野遺跡出土石器実測図

 本遺跡はまず弥生式土器第Ⅲ様式(新)の段階、すなわち弥生時代中期に、U状溝をめぐらした集落を営んでいる。集落の中心は現在の中野の集落に接する南側の台地上にあり、東高野街道をはさんで東西にわたっていることも次第にわかってきた。この中には壺棺などを用いた小児のための埋葬遺構も点在していて、かなり密集した住居群から成り立っていたことがいえそうである。その後、期間をおいて古墳時代後期から奈良時代に再び集落を形成し、平安後期には寺院様建物が建立されたのち中世後半期まで存続した、長期にわたる集落遺跡といえよう。近年この地域の開発が急速に進み遺跡の現状が広く改変されるおそれがますます大きくなった。その点で古くから知られた中野遺跡の主要部分がなんらかの方法で保存されることを期待したい。(北野耕平・松井忠春)