石匙は長さ三・七センチ、下縁の幅三センチあまりのややいびつな二等辺三角形をなす縦形で、厚さ〇・五センチ(考古一〇―(1)左上)。製作技法もまた粗雑で刃の部分にのみ細かな押圧剥離が認められる。北地点で石鏃とともに採集したものである。
石槍は長さ七・八センチ、幅二・九センチ、厚さ〇・七センチの木の葉形をしたもので、粗雑な剥離の技法で整形している。この石槍は段丘の下の南寄り地点で弥生式土器片とともに採集したこともあり、形態の特色からしても弥生の石器とみるべきものであろう(考古一〇―(1)右端)。他の一個は長さ五・一センチ、幅一・六センチ、厚さ〇・七センチの細長い棒状をしていて、石槍もしくは大型の石鏃とみられる弥生期の遺物である(考古一〇―(1)中央上)。
石鏃は比較的小型の三角形を呈する凹基式の無茎品であるが、一個だけ凸基式の無茎品を混じている。また縄文時代の石鏃の特色をもつものも認められる(考古一〇―(1)左下)。別に河南高校考古学クラブで保管中の細井新池出土の二個の石鏃がある。この二個はともに一九六七年秋に採集したもので、いずれも凹基式無茎品である(考古一一―(2)左側)。一個は長さ二・〇センチ、幅一・二センチ、厚さ〇・三センチで重さ〇・六グラム、他の一個は長さ一・七センチ、幅一・二センチ、厚さ〇・三センチで重さ〇・四グラムという小型品である。
石錐は長さ三・一センチ、扁平なつまみをもつ通有品で、錐先の部分がまるく磨滅した使用痕が認められる(考古一〇―(1)中央上)。
すでに述べたように、遺跡一帯に広くサヌカイト片が散布しているので、縄文から弥生時代にかけての集落遺跡と推定される。残念なことにまだ縄文土器片を採集するに至っていないため、縄文時代のどの時期に属するものかは確定しがたい。東方の錦織遺跡との関係で将来さらに検討すべき遺跡である。弥生遺跡としても喜志・中野両遺跡のように石川に近接せず、羽曳野丘陵の小規模な谷口扇状地上に位置する点で、その立地のもつ性質には若干異なるものが感じられる。(竹谷俊夫)