ここでいう滝谷遺跡とは、別称のインノ谷遺跡と西山遺物散布地を併せたものである。市域のほぼ中央部にあたり、石川右岸の広い沖積低地を隔てて、楠風台が位置する彼方の河岸段丘背後の丘陵地を占めている。この丘陵は南北の二支に分かれて東西の方向に細長く走り、東方ではその間に柳谷池を抱き、西方は合体して西端に滝谷遊園を配している。なお南麓には名刹滝谷山明王寺がある。丘陵の全長は一・二キロで、標高の最も高いところで一三九メートルにすぎないから、さほど大きな丘陵ではない(146・147)。
北側の丘陵の北斜面に弥生式土器を散布する地点があることは一九五〇年代に知られていたが、のちにこの丘陵一帯を開発する計画が立てられた際に、大阪府教育委員会の分布調査と試掘が行なわれて遺跡の所在が明らかとなり、地元の理解をえて開発は保留となった。石川から望むと楠風台のある河岸段丘の背後が緑におおわれた丘陵として残り、さらにその南方にそびえる嶽山、金胎寺山の丸味を帯びた温雅な山丘に続いて、よい自然環境を保っている。一方、遺跡地の上に立つと前方の石川を介して旧富田林町の市街を眼下に俯瞰し、右手に石川谷下流の開豁な広がりをほしいままにすることができる(148)。
遺跡は東西二つの小支脈に分かれていて、西方は東西・南北とも約二〇〇メートルの広さで、東方は北東から南西にかけて長さ四〇〇メートル、幅八〇メートルの帯状にそれぞれ弥生式土器片の散布をみる。府教委の泉本技師の教示によると、調査は一九七三年一月から二月にかけて行なわれ、西方、東方ともに各四カ所の弥生式土器の濃密な散布地点が確かめられた(149)。