一方、古墳時代は『古事記』、『日本書紀』など、八世紀初頭に成立した最も古い史書の記述に盛り込まれている時期と重合すると考えられたことから、これら『記・紀』の内容に直結する歴史的価値観が形成された。とくに『記・紀』が大和朝廷の形成説話を基幹としている事情もあって、古代国家の成立過程に関する事実と時間的信憑性を厳密に史料批判することなく、考古学的資料を解釈する手段として援用したためである。一八世紀以降、国学の発達につれて勤皇思想の高揚にともない、イデオロギーに刺激された陵墓考証の対象として、古墳がまず脚光を浴びることになった。日本独得の墳丘の形制に対して「前方後円」という名称を使用することは、すでにこの段階において考案されていたのである(153)。
近世後期の勤皇家として知られる蒲生君平が、その著『山陵志』の中で、陵墓の形状を、天子ら貴人が乗輿する「宮車」をかたどったものと説明し、初めて「前方後円」の名称を用いたのであった。彼はこの墳丘の形状をつぎのように説明している(154)。