それ、その円くして高きは盖(きぬがさ)を張れるがごとし。頂きの一封をなすは、すなわちその葬る所なり。方にして平らかなるは、衡(こう)(筆者注、宮車の前方両側のながえにわたした横木)を置きたるがごとし。その上に隆起せるは梁輈(りょうちう)(筆者注、牛車の前に長くつきだした柄、ながえ)のごとし。前後相接し、その間ややひくし。しかうして左右に円丘あり。その下の壇に倚(よ)れるは両輪のごとし。後世に至るに及びて、民のこれをみてよく知るなきも、なほ、なづけて車冢(くるまづか)といふ。けだしこれをもってなり(原漢文)。
江戸時代当時において、すでに蒲生君平の実証的な古墳の考察は、「前方後円」という日本固有の墳丘の命名者にふさわしく、まさに卓越したものといえる。おそらく彼は河内・和泉・大和の各地に分布する古墳の一つ一つを踏査して、外形に共通する点が多いことを、夙に認識していたからであったといわねばならない。ついでそれ以降の天皇陵の内部構造が、玄室(げんしつ)と羨道(せんどう)からなる横穴式石室で、玄室内部には石棺を蔵置するようになったと記述しているくだりを読み進めていくと、彼自身もまた実地の調査を積み重ねて、豊富な知見を備えた古墳の研究者であったことを知りうるのである。
しかしここで、蒲生君平による古墳踏査の動機として、我われの注意しておかなければならない問題点が二つある。一つは彼の研究が、同時期における近江琵琶湖畔の石器蒐集家木内石亭のような好古趣味から出発したものではなくて、天皇陵の所在地探索と考証を目的としていたことである。他の一つは、その陵墓探索の資料として『古事記』、『日本書紀』あるいは『延喜式』などの文献に絶対的な信頼をおき、記述内容の当否にさかのぼって検討を加えなかったことである。