まず内容についての比較を試みるために、石川の下流域の玉手山古墳群からみていくことにしよう。近鉄南大阪線の道明寺駅から古市駅にかけて、東方には石川を介して低い丘陵が、二上山・寺山を背景にして南北の方向に延びているのが見える。現在ではこの丘陵も、大阪市南部から弧線を描いて奈良盆地の中央を貫き、名古屋に通じている西名阪道路で真中を断ち切られ、北半は玉手山遊園地と新興住宅地になって大きく姿を変えてしまったが、一九四〇年代までは全山が美しい松林でおおわれた自然の景観をよく残していた。丘陵の規模は柏原市片山町に始まり、羽曳野市駒ケ谷に至る南北の長さ約三キロ、最も高いところでも海抜標高一〇〇メートルにすぎないが、尾根筋を縫ってほぼ一列に一三基の前方後円墳と七基の円墳が並ぶ注目すべき構成であった(158)。
これらの前方後円墳の外形はなかなか堂々としたもので、後円部が大きく高いのに対して、前方部は一段と低く細長いテラス状に突出し、前期の特色をよく示している。発掘調査した例からいうと、墳丘の斜面には円筒埴輪と葺石をあまねく使用しているが、墳丘を形作るための封土としての盛土はほとんどなく、丘陵の自然の隆起を巧みに利用してできるだけ土量の移動の節減を図って工事を行なう前期の古墳の傾向が認められる。たとえば第3号墳(勝負山古墳)は西南西に向く前方後円墳で、全長一〇六メートル、後円部の直径六八メートル、前方部の幅は四六メートルあり、その北方に位置している第2号墳は全長一〇三メートル、後円部の直径六三メートル、前方部の幅三二メートルの規模をもち、南方の第7号墳(後山古墳)はさらにこれらを上まわる大きさを有するなど、いずれも前期古墳としてAクラスの大きさに属している。