これらの結果からみると、玉手山古墳群という前期の前方後円墳の多くは、竪穴式石室を内部構造とするもので、粘土槨は後に副次的な追葬として営まれたものと解釈することができる。ところがこれに対して、富田林市など石川の中・上流地域の前期古墳の内部構造はことごとく粘土槨で、竪穴式石室の構築例をまだ一例もみないという興味ある事実がある。このことはあとで具体的に取り上げることにしよう。
竪穴式石室と粘土槨の構造をめぐる問題については、滋賀県安土町の瓢箪山古墳における竪穴式石室の調査を契機とした小林行雄氏のすぐれた論考があって(小林行雄「竪穴式石室構造考」京都帝国大学文学部編『紀元二千六百年記念史学論文集』一九四一年、のち『古墳文化論考』一九七六年所収)、両者はともに長大な割竹形木棺を納めた外部施設として、石室は木棺を安置した粘土構造の上部を被覆する施設であり、粘土槨はこの石室を省略して粘土でおおったとの見解を、両者の比較と副葬品の配列から導き出した。戦後、数多くの前期古墳の調査も大局的にこれを裏づけ、本格的な竪穴式石室に対して、粘土槨はこれよりも簡単な構造として、まず石室が成立したのちに、同形の割竹形木棺を包む施設の形で営まれたとみることができるようになったのである。さらに古墳時代中期には、堂々とした竪穴式石室と長持形石棺という組合せが盛行する一方では、粘土槨と木棺が小型古墳の内部構造として認められる点で、墓制の消長を考える場合に重要な要素をなしている。