河南の前期古墳の二相

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これらの点からみると松岡山古墳群は規模と古墳の数では玉手山古墳群に劣るものの、内容と副葬品の豊富さではこれに勝り、被葬者の地位が強い権力的基盤を支えとして形成されていることを思わせる。この二つの古墳群を構成した豪族の系譜がそれぞれ異なるものとする立場から考えると、玉手山古墳群の被葬者達は河内南部を掌握し、幾世代にもわたってかなり長期に権力を承継、維持した規模の大きい有力な在地豪族の家柄に属していたといえるであろう。特定の氏族名を『記・紀』の上に求めて、いくつかの候補をあげることも困難ではないが、考古学としてはここに問題を限定すべきではあるまい。群を構成する多くの古墳が、竪穴式石室と割竹形木棺という四世紀代に全国的に流行した内部構造をもち、第3号墳のように割竹形石棺という特殊な棺材を用いた例もあるが、全体の墓制を通じて保守的な要素を長く維持した伝統性の強さが認められる。