さて眼を転じて石川の中・上流域の前期古墳をみることにしよう。すでに述べたように南北に狭長な回廊地帯ともいうべき石川谷に入ると、この地域の古墳はにわかに墳丘の規模が小さくなってしまうだけでなく、谷に臨む丘陵突端や台地縁などに点々と距離をおいて位置する分散型に変化してしまう。つまり玉手山や松岡山などの規模の大きな前方後円墳を中心として、地域的に集中する傾向とは、あまりにもはっきりとした差が認められる。大型の前方後円墳を築造した被葬者は、それだけ権力の規模の大きい首長の存在を示しているとして、前項では玉手山古墳群の被葬者達が河内南部を基盤とした有力な在地豪族であったことを想定し、一方の松岡山古墳群の場合には、河内型とは異なる前期北大和型ともいうべき畿内の有力豪族と結びつく可能性を考えた。
それに対して石川谷の小規模、分散型の前期古墳の分布からはどういうことが推定できるであろうか。具体的にみていくと市域には鍋塚、真名井、廿山、板持丸山、板持3号墳など五基の前期古墳が、内部構造や出土品の明らかな例として存在している。その他に今後なお発掘調査によって、前期古墳に加えられる可能性をもつものや、これまで調査を行なう前に内容が分からないまま破壊、消滅してしまったものも数基あると考えられる。ここでは立地、墳形、内部構造などの要素について総括的に検討を加え、副葬品の特色から問題点を指摘しておくことにしよう。さらに市域外にあたるとはいえ、同じ石川谷に属する前期古墳として、河内長野市の大師山古墳と、羽曳野市の御旅山古墳の内容も逸することができない。