板持丸山古墳はこれまで述べてきた諸古墳とは離れて石川の東岸に位置している。すなわち鍋塚・真名井・廿山などの古墳は石川の西岸に分布し、羽曳野丘陵の東縁に沿って営まれた古墳であったが、板持丸山古墳はつぎに述べる板持3号墳とともに、板持から佐備にかけての東方の丘陵上にあって、いわば地域的に全く別のグループの古墳に属している。さきに真名井古墳と鍋塚古墳から喜志付近に地域的集団を組織した首長達の存在を推測したが、ここでも同様な組織が地域を背景に成立していたことがいえる。ミクロ的に観察すると、この付近では石川の流路は南西から北東に向かって石川谷の低地を斜めに横切るような形で、東岸に沿って長さ三キロ、幅一キロの広い沖積低地を形作っている。この低地上の西板持・東板持・山中田・北大伴にかけては、条里制の遺構とみられる東西・南北方向の碁盤目に区切られた畦畔の地割りが認められる。つまりこの石川の氾濫原が、奈良時代ごろに耕地として区画が行なわれ、現代風にいうと圃場整備されたわけである。開墾の時期がさらにこれよりも古いとすると、肥沃な耕地としての利用が始まったのは古墳時代にさかのぼる可能性が強い(172)。
板持丸山古墳が位置する丘陵は南北に細長くて、長さ一・五キロ、東西の幅は〇・五キロあり、北端から中央部にかけて総数六基の古墳分布があった。このうち一、二基は後期に下るが、他は古墳の内容からみて前期的要素をもつもので、中でも板持丸山古墳は墳丘の占める地形的条件として最も時期がさかのぼるといってよいかもしれない。つまり板持地区の古墳の歴史は、おそらく当時の集落と耕地から仰ぎ見ることのできる丘陵突端に営まれた板持丸山古墳から始まるのであろう。