しかしここで一歩進んで考察を加えるならば、石川谷の中・上流域の狭い地域の中で、さらに地域集団を異にして古墳が築造されていたところに、注目すべき問題が潜んでいる。古墳は豪族の墳墓として営まれたとする解釈は古墳時代を通じて適用できる定義であるが、個々の地域でどのようにして古墳が成立したのかを社会的背景にさかのぼって問い直すと、その地域での古墳の出現と消長はたんに豪族の存否にとどまらず、地域社会が置かれた環境の反映として理解できる。古墳時代前期の段階で、石川をはさむ東西のいくつかの地域がそれぞれ別個に古墳を築いていた点からすると、石川谷の開発が弥生時代以降、いくつかの農耕集落に分かれて定着して行なわれ、次第に小地域ごとに首長を擁立していった経緯を示すものとして興味が深い。市域内において、前期古墳の分布から喜志・宮地域、甲田・錦織地域、板持・佐備地域をブロック別に区分することが可能である。このそれぞれの地域で、当時の人びとがどれほどの人口規模と集落の実態をもって生活していたかは将来の研究課題であるが、次章で扱う集落遺跡の分布調査の成果から、その片鱗をうかがえるであろう(176)。
首長の権威の表現を当時の社会的慣習にしたがって古墳の築造として行なっているものの、柏原市国分の松岡山古墳群や玉手町の玉手山古墳群、あるいは大和盆地各地の古墳群と比較すると、その相違は歴然としている。市内の前期古墳は、いずれも広い地域の中で比類のない権威の象徴と解するには、あまりにも小規模でつつましく、自然発生的である。いいかえると、弥生時代後期以降に、集落の統合と階級分化の動きが顕在化していく過程にあって、古くからの社会組織が小地域内部の階層として比較的長く保たれ、やがてこの小規模な統合権が外部的な承認へと結びつき、次第に大きな政治体制の中に包摂されていった地域というべきであろうか。