風土記の村君の説話

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板持・佐備地区では3号墳で前期的要素をもつ古墳が終わるらしい。これに対して石川の上・中流域では中期の前方後円墳として顕著な例がないことからすると、石川谷の前期から中期への移行は地域的な勢力の上に大きな変化をともなって、地域古墳の消滅あるいはきわめて限られた形での築造として推移したことがいえそうである。まだ具体的に説明する資料は十分にないが、ここで『播磨国風土記』の中の説話をひとつ紹介しておくことにしよう。奈良時代初頭の和銅年間に成立したと考えられるこの『風土記』の「賀毛郡」の中に、臭江(くさえ)という地名起源を説明した条がある。

 昔、品太天皇(ほむだのすめらみこと)の時に、播磨の国の田の村君(むらぎみ)、百八十(ももやそ)の村君がいた。彼らがそれぞれの村の間で相闘っていて平和にならなかったので、天皇は勅してこの村に村君たちを追い出して集め、ことごとく斬殺してしまった。それによる遺体の臭気から地名を臭江というと記している。この物語は地名起源を説くための牽強付会の伝承とみられるが、播磨に数多くの村君が分立して、時には対立・抗争する場合もあった時期を反映していると解してもよいのではないか。非常に古い時期に多数の村君が分立し、それぞれの古墳を築いていた地域的風潮は、播磨に限らず全国的に見られた現象であった。

 ただ、品太天皇(応神天皇)がこの記事に登場することには、信頼性がない。『風土記』に彼が征服者として登場するのは、地方に分散した小勢力をさらに大きな組織に統合した歴史的経過の説明にすぎない。物語が形成され集録されていく時代に、大和朝廷が権力の象徴として強く認識されたからであろう。話の内容が幼稚で非現実性を帯びていることも、かえって後世の説話形成の民話的普遍性を思わせ、どの地域でも統合の過程に共通する問題であったことを想像させる。『日本書紀』の神代紀にも「天の邑君(あめのむらきみ)」として農耕の創生説話の一幕があるので、古代の農耕集落を統合した最も規模の小さい支配の単位と考える。おそらくこうした内容から言って、市域の喜志・宮地域、甲田・錦織地域、板持・佐備地域の前期古墳の被葬者は、それぞれいくつかの小農耕集落を統合した村君たちであったとみられるのである。

178 彼方丸山古墳上からみた北方の沖積低地全景

 それでは、つぎに市域の前期古墳あるいは前期的内容をもつこれらの古墳に対して、市域の周辺ではどのような前期古墳があるかを、主要なものに限ってみておくことにしよう。